春の香がほのかに匂いだしたとはいえ、まだ風は冷たい。
特に夜の風は身を切るようだ。
そんなある日、巡回から帰ってきた斎藤の目に映ったのは美しい月だった。
それとともに目に映ったのは膨らみかけた桜の蕾だった。
膨らんだ先は淡く色付いている。
それは、何かに似ていて、しかし、その何かは思い出せない。
それから10日ほど経ったある日。
この日は斎藤が巡察の日だった。
のどかな日だった。ふと、隣にいた千鶴が何かを、じっとみていた。
雰囲気から察するに、決して探している父親というわけではないようだ。
それにしても、妙に熱い視線を向けている。
その視線を追えば、老舗の和菓子屋さんだった。
千鶴は他の女子と同じように、甘いものが好きだ。近藤局長や、原田が彼女によくお土産といい、金平糖だの、かりんとうだのを買ってきてはよく、お茶を飲んでいる。
それにしても、何にそんなに熱い視線を向けているのか、その理由はすぐにわかった。
外の暖簾に、でかでかと、「桜餅はじめました」と書いてある。
それは今買わないと、もうないぞ、と言わんばかりに。
千鶴は絶対にアレが欲しいだの、これがいいだの言わない。
彼女のことだ。もし、「食いたいのか」と聞いたとしても全力で、否定するだろう。そういうところが、かわいいのだが、同時に憎らしい所だ。
さて、どうするか。
「雪村」
巡察中なのでわざと名字で呼ぶ。
「あっ、はい!何でしょうか?」
「頼みがあるんだが。あの店の桜餅を、買ってきてもらってよいか?」
そう言って金子を渡せば、何の疑いもなく、ぱたぱたとおつかいに行ってくる。大方、土方さんへの土産を頼まれたぐらいにしか思ってないのだろう。
いくら俺でも、巡察中に土方さんへ土産など買わない。
「買ってきました!」
満面の笑みで戻ってくるなり、お釣りと桜餅を渡してくる。
「ああ、すまないな。」
「いえ、このくらい。」
「では、戻るか。」
「はい。」
それから、一息ついて、斎藤は千鶴の部屋の前に居た。
二つのお茶を持って。
「千鶴。今、時間あるか?」
部屋の前で声をかける。
「あ、はい。大丈夫です。どうしました?」
部屋の障子を開けてにっこりほほえむ彼女。
どこで、こんな笑いを覚えたのか。
見る人が見たら本当に少女でしかない。
それは、これから咲き誇る花のように。
ゆっくりと色づいてきていることにわずかな戸惑いを覚えながら、でも顔には出さずに聞く。
「食べるか?」
「え?あ、さっきの…。あれ?お土産じゃなかんですか?」
やはり、千鶴はお土産だと思っていたらしい。
なんだ、まだまだ子供じゃないか、と、妙に安心する自分に驚く。
「茶も入れてきたんだが、どうする?」
「い、いただきます!」
そうか、と部屋に入ろうとすると千鶴に止められる。
「今日は天気がいいので縁側にしませんか?」
そういうや否や、部屋を出て歩き出す。こういうところは意思がはっきりしていて、彼女のよいところだと思う。
縁側に腰かけて、二人で桜餅をほおばる。
千鶴の顔はとても明るく、にこにこしている。
買ってよかった、と、今更ながら思う。
ふと外を見ると、そこは満開の桜。
あの蕾から、咲き誇るまで時間が経っていたのか…と今更ながら思う。
彼女の組紐が、あの蕾と同じ色で揺れていて、彼の眼にはまぶしかった。