夫婦喧嘩 後編
懐かしい顔だった。
あの、北の大地で救えなかった人。
あの雪の中、一人心を凍らせてしまった人。
「銀。」
そう言うと彼はにっこりと微笑んだ。
「可愛い姫君にそのような美しい名で呼ばれるとは光栄ですね。お久しぶりです。十六夜の君。」
知盛によく似ているが全く似ていないその笑顔は望美の知る銀、その人だった。
ただ違うのはこの彼はここに居るという実体感があることだ。
あの北の大地にいた銀は優しかったし、話し方も仕草も確かにここに居る銀と同じだったが、どこか現実感がなかった。雪のように触れたら水になって消えてしまうようなそんな儚さを持っていた。
(そっか…まだ政子さんに呪詛をかけられていないから…)
だから彼はこんな風にしっかりと立っているのだ。
でも、きっと彼の心の中には、
(焼いたことを…後悔している。)
その思いだけはきっと変わっていないはずだ。
「折角泣き止んだのに、そんな顔をしないでください。十六夜の君。」
「銀…ううん、重衡さん…。」
「おや…私の名前を知っていてくれたのですか?うれしいですね。よかったら十六夜の君のお名前も教えてくださいませんか?」
その笑顔で聞かれるとどうも弱い…そんなことを思いながら、強張った気持ちがどんどん解れていくのを望美は認めざるをえなかった。
そんな二人の和やかな様子を知盛は少し離れたところから見ていた。
しかし、望美は最後まで知盛の視線に気づく事はなかった。
知盛は、非常に珍しいことであるがそんな二人に声を掛けることすら出来なかった。
泣き顔ではなかった。
ただ、寂しそうな顔。
頭から離れない。
それと同時に重衡の前で見せていたあの笑顔がよみがえる。
悪いといえば自分が全面的に悪いのだ。それはよくわかっている。
でも、だからといって、自分から折れる、謝る、といった選択肢が全く浮かんでこないのがこの男の悪いところである。
春香はなかなか帰ってこない望美にはらはらしていた。
目に見えて知盛の機嫌が悪くなっていくからだ。
大抵、望美がいるときは夕食を一緒に食べ、その後二人の夜着を用意して一日が終わり、眠りにつく。だが今日はそうはいかない。
望美は帰ってこないし、知盛はさっきから酒をあおるように飲んでいる。
もともと知盛の飲む酒の量は尋常ではないのだがいつもは望美がうまくセーブしていた。
止める人がいないせいもあり量はどんどん増えてゆく。
こっそり買っておいた酒を出さねばならないような状態だ。
普段は望美がそのところをうまく調節していた。
望美がいないと、この家は全く成り立っていない。
どうすればいいのか、春香はおろおろしてしまっていた。
「おい…」
「あ、はい。」
「お前はもう休め。」
「…ふぇ?」
思わず変な声が出た。
「朝、早いだろ。もう、いい。」
知盛の思いがけない言葉に驚いた。
「知盛殿…あの…本当によろしいのですか…?」
「ああ…構わん。」
いつも春香の朝は早い。そのことを知盛は知っていたのだ。
「では…お言葉に甘えて…失礼します。」
そう言って春香は部屋を出た。
知盛がいるのはいつもの寝室ではない。
その途中にある居間の縁側だった。
その部屋はこの家の庭に面していた。
庭にはすでに緑に覆われている。月に照らされて緑が青々と繁っている。
望美はまだ帰ってこない。
将臣から、今日は帰らないと望美からの伝言は聞いている。
聞いているのだから、諦めてさっさと寝ればいいものを、知盛はそれも出来ずにいた。
何となく一人で褥に入るのが嫌だったのだ。
ぼんやりと庭を眺める。
春は当にすぎ季節は夏へ向かおうとしている。
だが、まだ、あのじめじめとした暑さはなく、からりとした風が気持ちよい。
風によく似た彼女の笑顔。
あの顔を、あの瞳を、あの声を、あの香りを、独り占めしたい。
他の奴になんか、見せないで欲しい。
最後に彼女の柔らかな表情を見たのは、いつだったろうか。
さっき、重衡の前で見せていた、あの時かもしれない。
「チッ」
軽く舌打ちして酒を口に運ぶ。
何でもいいから気持ちを紛らわせたかった。
長い夜が明けた。
「望美さん!」
「春香ちゃん…えっと、おはよう?」
間違いない朝帰りである。
どうしても家に帰りたくなくて、将臣の家に泊まったのはいいが、結局落ち着かなくて、一睡も出来なかった。なので、朝一で帰ることにしたのである。
「こっちに来てください。」
春香に促されて来たのは家の縁側だった。
「なにこれ…」
散らばる酒瓶と、そのど真ん中で丸くなって眠る知盛の姿がそこにはあった。
どうしてこんなところに寝ているのか、どうしてこんなに酒瓶が転がっているのか、
文句を言いたいのは山々だが、何より目を引いたのはその寝姿だった。
まるで猫のように、丸くなっているその姿。
夜着一枚で寝ている姿はとても艶めいていて、なのにこどもみたいだ。
(うわ…。)
つん、と頬を突っついても全く起きない。
いつもなら、自分のほうが早く寝覚めて離れようとすると、すぐに起きるくせに。
今は熟睡状態だ。
(何だか…かわいい…。)
彼は自分がいなくても生きていける人だ。
自分だって彼がいなくてもやっていける。
でも、結局お互いのところに戻ってくるしかない。
愛だとか恋だとか、きっとそんなことじゃない。
彼にとって「たった一人」じゃなくても、
自分にとっては「たった一人」。
だから、今、傍にいる。
すると彼は突然望美の手をとり、素早く腕の中に閉じ込める。
そしてそのまんままた眠りについた。
望美は春香に上着を頼みそのまんま一緒に眠りにつくことにする。
起きたとききっと彼は不機嫌だろう。
きっと自分も同じように彼と言い争いをするだろう。
でも、それは日々のくり返しであって、きっと何気ない一日に変わっていくだろう。
これが夫婦というものならば、それでも悪くないと落ちていく意識の中でぼんやりとそう思った。
こうやって日常を重ねていって、
お互いがお互いだけになるまで、
時間はきっとかからない。