夫婦喧嘩<前編>



よく晴れた五月のこと。

この晴れやかな空には似つかわしくない声が響き渡る。

「そーやってごまかさないでよ!」

望美は大きい声で叫んだ。



今日は知盛も久々のお休みだ。だから二人でどこかに出かけたいと思った。

いつも家に居るだけじゃつまらないし、時にはデートというのもしてみたい。

しかし町へ買い物というのでは何だかもの寂しいと思った望美はこれ以上とない名案を思いついたのだった。

「ねえ、福原に行かない?」

実は、二人が結婚してからまだ尼御前の所に挨拶していないのだ。

結婚した当初、知盛はそっけなく「書状だけでかまわん」と言ってさっさと手紙を送ってしまった。その後もなんだかんだと忙しく福原まで行く機会に恵まれなかった。

一応、望美は知盛の妻である。望美としては知盛の母君にきちんと顔をあわせて挨拶したかったのだ。

縁側にでろんとそれこそマグロのように横たわっていた知盛は望美の方を見ることなく、ただ無言でその意見を却下した。

だが、望美は続ける。

「一回きちんと挨拶しないと悪いと思うんだよね。」

「母上は別に気にしないと思う。」

「気にすると思うよ!…わたし、一応奥さんなんだし…。」

「だったらさっさと孫でも作るのが先だろう…。」

「孫って…って、順番が違うよ!」

「違わないさ。」

「違うって!それとも、何…もしかして知盛、自分の母親に私を会わせたくないの…?」

「…誰がそんなことを言った…?」

「そりゃあ…可愛いわけではないし、落ち着いてるわけじゃないし、上品でもないし、家事も出来ないけどさ…。こんなんじゃ恥ずかしくて会わせられないって事?」

考えが突飛な上に被害妄想まっしぐらな望美に、知盛はあきれて言葉も出ない。誤解もいいところだ。

朝からこのような不毛な言い争いを続けていて、正直なところ面倒くさくなってきた。

しかも折角の久しぶりの休みである。知盛としては望美としっぽり家の中でゆっくり(いたずらして)過ごしたかったのだ。

だから、この言い争いを早くやめにしたかった。

思わずこんな返答をしてしまった。

「そう思いたいなら…そう思っていろ…。」



そういった途端、うるさい望美の声がびたりとやんだ。

あまりの静けさにぎくりとして望美の顔を見ると、必死に泣きそうなのを堪えているのが目に入った。知盛と目があうとふいっと目をそらし立ち上がった。

「…わかった。もう、いい。」

流石に言い過ぎたと気づいた知盛は慌ててなんとかなだめようと考えた。

だが、それよりも早く望美が部屋を出ようとしていた。慌てて望美の腕を取る。

思いついたのはただ一つ。

抱きしめて優しく口づけをすることだった。

いつもはそれである程度は機嫌は直る。その後は甘い言葉をささやき、ひっそり言葉の影に望美への思いを含ませればなし崩しに望美は彼を許すのだった。

が、それをも今日の望美はおもいきり払いのける。

「そーやってごまかさないでよ!」

そのまま部屋から飛び出してしまった。



流石に不味い事をしたと思う。

「恥ずかしくて会わせられない」など誤解もいいところなのだが、一度そう思い込んだら単純な望美のことだ。ずっと誤解し続けるに違いない。

そんなこと考えているはずなどないのに。

ただ、望美と二人一緒に居たかっただけなのだが。

でも、そんな気持ちを絶対に口に出すことの出来ない自分。

「ちっ」

思わず出る舌打ち。

それは望美に対してなのか、自分に対してなのか。

何故こんなに落ち着かないのか。

それが単純な恋心なのだと気がつけばよいのだが、そんなことは微塵も考えていない。

自分の恋心にはいたって鈍感なのである。

むしゃくしゃした気持ちのまま部屋を出て、望美がどこに居るか探す。

「望美さんなら外に出て行きましたけど…。」

ためらいがちに春香が知盛に伝えると、知盛は落ち着かない様子で外にでた。





「まったく…知盛の奴…。」

すごい形相で将臣の屋敷に来た望美をみて、将臣はすぐに「知盛となんかあったな。」と悟った。

だが、声を掛けるより先に望美が泣き出したのを見て只事じゃない、と気づいた。

望美が落ち着くのを見計らい話を聞くにつれて、将臣は思わずあきれた。

らしいと言えばらしいのだが、あきれるしかない。

とりあえず望美を慰める役に徹するが、それでも望美の涙は止まらない。

第一、 こんな風に望美が泣くのを将臣は見たことがなかった。

一言知盛の事について話し出そうとするとまた涙がこぼれる。

それを一生懸命耐えようとするのだが、あふれ出る涙は止まらない。

17年間となりにいて、それでも見たことのなかった望美の泣き方。

こんな風に泣かせる知盛への忌々しさが先にたつ。



だが、



どんな風に慰めたらよいのかわからない。



いつも一番近くにいた。

一番わかっているつもりだった。

なのに。



「望美、一回飲むもの持ってくるから、席はずすぜ?」

「うん、わかった…。」

将臣はその場に居られなくなって席を立った。





胸が痛い。

何故こんなにも胸が痛いのか。

たった彼のいつもの一言なのに。

よくある言い争いなのに。

きっと彼は面倒くさかったのだ。…いつものことだ。なのに。

どこかで「認めていたわけではない」という事実に気づく。

彼は自分を女として認識してくれてはいたけど、「伴侶」として思っていてくれてた訳じゃない。結婚したのだって気まぐれかもしれない。

こちらの世界は一夫多妻制なのだ。今は彼の妻は自分だけだが、いつかはそうでなくなるのかもしれない。

自分は知盛の「たった一人の人」になれていたわけじゃない。

親にも紹介できない程の…一時の気まぐれ。

「どうしよう…涙が止まらない…。」

ううん、それより。

「寂しい。」

声にしたら本当に寂しくなって。また涙が溢れる。



涙が止まらないなら、もうそのままにしておこう。

拭いても拭いても止まらない。

きっと流してしまったほうが楽になる。

そう思った望美は溢れる涙を拭くのをやめた。



そのときだった。



優しく、涙をぬぐう手があった。

はっ、と望美が顔をあげると、その相手は驚いた様に彼女を見つめた。

そして呆然とまるでうわ言のように彼女に問いかける。



「十六夜の君。」