自分が覚えているのは白い手だった。





少年時代





「いつもありがとう。」

そう言って微笑む母の姿はいつも繊細で、どこか消え入りそうだった。

毎日会って、毎日見ているのにいつも、また細くなった…といつも思う。

その細い手で、ひんやりした手で、自分の頭をなでられるのがなんとも言えず切ない。

でも、母がこうやって微笑むのを見ると自分も無理やり笑顔を作らなければならない気がして、気づけば笑うのだけは上手くなっていた。

「薬かあ、苦そうで嫌だなあ。」

そういってふざけたように笑う母はいつだって子供っぽい、そう思っていた。



 母は気づけば床の上にずっといた。病は日々彼女の体を蝕んでく。産後の肥立ちが悪かった彼女はああやってずっと床に臥せっているのだ。その彼女に薬を届けるのが毎日弁慶の仕事だった。

母の弱っていく姿は誰が見ても痛々しく、そしてそのことを母はよくわかっていたのだと思う。だから自分の世話を誰にもさせなかった。弁慶が部屋に入るのすら拒まれることもしばしばあった。薬だって母は自分の部屋の前に置いていくだけでよい、と何度も言われた。しかしそれを振り切って弁慶は部屋に入っていっている。彼女が体を病んだのは自分が生まれたからなのだ。そう思えば母の世話をするのは自分しかいない、そう思っていた。

 母がよくなるためだったら自分は何だってしよう。あの頃はそんな気持ちだけで生きていたように思う。医学についても薬学についても、そのための知識だった。

 そして毎日のように、それこそ何度も「来るな」と言われているにもかかわらずやってくる者がもう一人。それは自分の兄である湛快である。今二人がいるこの熊野の奥地にあるこの家は彼が用意したものだった。彼は何度も彼女を自分の屋敷に来るように言われていたが、それは断固として拒否した。

「よお、具合どうだ?」

豪快な笑顔で笑うこの男は自分の兄である湛快その人だった。

彼が来ると彼女はそれはそれは嬉しそうに、まるで花のように笑う。

「今日は何だか調子がいいの。」

「そうか、早くよくなるといいな。あ、そうだ。今日は何でも南の国から面白いものが手に入ったんでな。自慢しにきた。」

「え、何…。」

そう言って話す二人をわき目で見て彼…弁慶は部屋を出た。

自分の部屋に戻り、昨日手に入れた薬学の書物に目を通す。

「おい、聞こえてるのか、弁慶!」

「聞こえていますよ。何ですか。」

その低く通る声はきっと晴れた海の上でならもっと響くだろう。

「げえ…相変わらずきったねえ部屋だなあ、おい。」

「そうでしょうか?」

「足の踏み場もない、その言葉のまんまだ。どこに足つければいいんだよ?」

「踏むところはあるでしょう?」

「本気で言ってのかよ…。」

「本気です。それよりもなんか用ですか?」

「あーうん…なんだ、その…。」

言い出すときにいいよどむのは、言い出しにくいことを言うとき。しかも内容は、何となくわかる。

「屋敷に来いと言うのでしたら母の首を縦に振らせてからにしてください。」

「…返答が早えよ。」



 熊野の冬は暖かいらしい。それは熊野に来る行商人から聞いた話だ。北の国は当然もっと寒いのだろうが、大陸の人も同じ事を言う。弁慶にしてみればいくら暖かいといわれても、十分に寒いと思う。

 今日は久々に勝浦の漁港まで来てみた。ここはいつでも活気がある。食料も大分尽きてきた。薬だって欲しい。それら生活のための資金は全て湛快が出している。しかし弁慶は十を過ぎたら自分が母を養っていこうと決意していた。そのためにはどんな仕事があるのか…ということを模索するという意味合いも兼ねていた。

後は穀物を手に入れるだけ…そんなことを思いながら店をつらつらと覗いていた時だった。

「おーい。元気かあ?」

そう言って豪快に笑いながら声をかけてきた、この彼女は熊野頭領の北の方である。

 北の方…といえば屋敷の中で唄を読んだり香合わせをしているイメージがあるが、この人には全くそんな様子はない。気づけば屋敷を抜け出し、小袖に着替え勝浦の町のおばちゃんと世間話をしている。そして、いたって豪快な人で男装して船に乗り込み、男以上の働きをしたことがある…という伝説の人だった。

腕の中にはもうすぐで二歳になる次期頭領、湛増がいた。つまりは自分の甥っ子である。

彼女は弁慶をしげしげと見て言う。

「相変わらず細っこいなあ…。熊野の男はもっとがっしりしてないと。ちゃんと食ってるのか?」

「ええ、ちゃんと食べてます。」

「ならいいけどよ。」

 この通り言葉遣いも綺麗じゃない。手だって荒れ放題荒れているし、髪の毛だって外に出すぎているせいか、潮風にあたり枝毛だらけ。それでも弁慶はこの人が好きだった。

自分の頭をなでる手は母の手と違って温かかったから。



「べんけい」

自分を指差して、母に確認を取るこの甥っ子。そんな彼に彼女は母の顔になって答える。

「そう、こいつが弁慶。じゃ、あたしは?」

「ママ」

「あたり。じゃ、アレは?」

ちっちゃな子犬を指差して尋ねる。

「ワンワン。」

「そう、賢いねえ。」

「あ、わんわん、きた。」

そういって近寄ってきた子犬に湛増は一目散に駆け出した。

「全く、好奇心旺盛な奴。」

そう言ってこの人は湛増のことを優しく見ている。母の顔で。

 この彼女に妻というイメージはないが母というイメージが弁慶はとてもある。自分の母親はというといつまでたっても少女のようで、どうしても母とは思えなかった。決して勝浦の町にいる女の人のように太っているわけでもないし、日に焼けているわけでもない。だが、豪快に笑いすべてを包み込むようなこの雰囲気は、母というイメージそのものだった。

「そういえば、うちの人見なかったか?」

突然思い出したかのように彼女は弁慶に尋ねた。

正直答えにくかったが、本当のことを言うことしかできなかった。

「あ、母に会っています…。」

「そうか…。」

 どこか寂しそうに答える彼女をみて、弁慶は母を憎く思った。この人にはいつも笑って欲しかった。その豪快な笑顔を常に見せて欲しかった。こんなことで表情を曇らせて欲しくなかった。彼女には大きな声で笑って、間違ったことをしたら本気で怒って、そういうメリハリのある顔をして欲しかった。



弁慶にとってこの熊野は世界の全てだった。

この世界しかなかった。



 町でいろいろな人といろいろな話をしていたら、いつの間にか日が暮れていた。母は日が暮れる前に帰って来ないとかなり厳しく叱る。普段優しい分だけそれはとてもとても怖い。しかし、この日は家に帰ると返事をしてくれる母の声がなかった。流石に奇妙だと思い母の部屋に断りもなしに入る。

 そこには白い顔をした母が倒れていた。どうやら布団から出ようとしていきなり立とうとしたため貧血を起こしたらしい。普通の貧血ならしばらくしていれば治るが、彼女は血が薄いためなかなか回復しなかったのだ、そのまま倒れたままだったらしい。しかし、そのときの弁慶にはそんなことはわからなかった。とりあえず息をしていること、心臓が動いていること、まだ体が温かいことを確認し慌てて医者のところに駆けつけようと思った。しかしこんな時間では迷惑なだけだ。そうすると弁慶にとって頼りになる人はたった一人しかいなかった。



「お願いです…助けて…。」

 道を全速力で駆けてきたため息が上がっていた。うまく言葉が出ない。駆けつけた先は湛快の家だった。そこでは湛増とその母と湛快が遅い夕食をとっていた。あまりの弁慶の形相に皆固まった。

「弁慶…?何があった?」

「は、ははが…。」

 それだけで湛快は全てを察したようだった。すぐに部屋を出て家に向かって走る。弁慶はすでに限界で声を出せるような状況ではなかった。そんな時、湛増が自分に近寄ってきて頭をなでてくれる。その小さな手が何だか愛おしかった。それを母の眼で見ながら彼女は弁慶に水をくれる。でも、その瞳はどこか泣きそうで。どうしようもない罪悪感が弁慶を襲った。

 なぜ彼女がこんな顔をするのか。その瞳は何だかいつもの母のようで。頼むから自分の前だけでもそんな瞳をして欲しくなかった。





 それから、母と弁慶は湛快の家で生活することになった。湛快は母に有無を言わせなかった。それは奇妙な生活だったとしか言えない、と弁慶は当時を振り返り思い返すことがあった。大人になって気づいたことも、自分の気持ちの理由も大人になって知る。

 これまで弁慶の中で母は自分をこの世にもたらしてくれた立った一人、唯一無二の存在だった。それがどんどん一人の人に変化してゆく。そのことに耐えられなかったのだ。自分が守る人だとは思っていた。でも、自分にとって一番大切な人が誰かの気持ちを平気で傷つけている。そのことが許せなかったのだろう。

 母の手が、自分を優しく包み込むものだけでなく、感情を持った、弱さを持った人間だと知ったのはこの頃だった。その手を見るのは痛々しく、切なく、でも、それでも愛おしかった。